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この場に及んでも変わらないのか。

2011.04.30

昨日の新聞に中部電力の浜岡原発3号機を7月に再稼働するとの記事が出ていた。
浜岡は予想される東海地震の断層面の真上にある最も危険な原発だと以前から言われてきた。

新聞をつぶさに読むと、中部電力がこの時期に再稼働する理由として次の3点をあげている。

1.「安全性については十分に確認している。さらに安全性をた確かめるために緊急の津波対策もする。」

これでは津波対策はしていなかったと言っているようなもの。
しかし地震が起こる度に原発は想定する揺れを600ガルから800ガル、1000ガルと上げてきた。
600ガルのときでさえ絶対安全だと言ってきたが、電力会社がいう安全とは何なのだろうか。

2.「夏場は電力供給が増えることから浜岡原発がない場合、電力の安定供給がかなり難しくなる。」

危ない原発を再稼働するより、なぜ他の対策を考えないのか。

3.「株主、投資家に業績予想という物差しを示す責務がある。」

電量会社が果たすべき責務の対象は投資家だけなのか。

原発の恩恵を受けてきたものとして今更誰かをを非難するのもはばかれるが、電力会社はこれまでもずっとこのような自己中心的な論理を繰り返してきた。

このよう地図があるのをご存じだろうか。
5月1日(日)の夜は24時間換気扇は止めて寝たほうがよさそうだ。

「家づくり学校」平成23年度入学希望者再募集のお知らせ

2011.04.28

少しは緩和されてきましたが、自粛ムードが漂う日本。
何か皆が縮み込まってしまったようです。
まだ原発の見通しが立たない中、仕方がないのかもしれませんが、いろんな催し物、会合が中止になってしまいました。
それに引きずられてか、私たちがやっている「家づくり学校」の今年の入学希望者もめっきり減ってしまいました。
実は今年の入学希望者は昨年度より大幅に増えるのではないかと、地震の直前まで考えていました。
というのは私たちの活動が建築雑誌に取り上げられたり、また多くの学生諸君が1年から2年へ、2年から3年へと進級してくれたからです。
彼らは建築設計について多くの新たな知識や設計者としての生き方を学んでいると思います。

思わぬことが日本を襲ってしまいました。
そんな時でも、そんな時こそ、建築への夢を忘れないで勉強を続けてもらいたいと思います。
ということで「家づくり学校」への再募集を行います。
奮って応募して下さい。
待ってます!

詳しくは http://ieschool.exblog.jp/
家づくり学校校長 泉幸甫

作品集 Ⅲ

2011.04.26

僕の作品集「建築家の心象風景1 泉幸甫」が連休明けから発売です。

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大きさはA4。
表紙に僕の写真が載っていたりして…、ちょっと恥ずかしい。
これまで作って来た建物の写真はもちろん、
どのようにして建築家になったか、生い立ちまで書いています。
だから僕のことがバレバレ。

興味のある方は本屋さんでまずパラパラと立ち読み、
そして気に入ったら早速購入。。
とっても美麗な本です。

値段は4800円+消費税。

ところでこの本の後、さっそく次の本に取り掛かります。
次の本は住宅を作る世界について、
柔らか目の教科書のような本になる予定です。

現実を忘れさせる現実?

2011.04.22

原発がどうなるかまだ分からない状態で、気が重い。
そうしたらこんな映像に出会った。
現実の向こうの現実?

久しぶりに、ホッとした気分。
Nasa
NASA提供のハッブル宇宙望遠鏡が捉えた
バラのように広がる渦巻き銀河

作品集 Ⅱ

2011.04.18

作品集が5月10日に出ます。
タイトルは「建築家の心象風景1 泉幸甫」
出版は風土社。(本が売れない時代によく出してくれた)
お値段がちょっと高くて5,000円。
(いい本だから勘弁してください)

建築雑誌での校正はしょっちゅうやっているが、
このような写真集みたいな本では色校正・製版・印刷がとっても重要なようだ。

建築の設計でいえば現場みたいなもの。
図面の書きっぱなしではチャンとした建物にならないことは当たり前。
だから何度も印刷所に通った。

もちろん大工には大工にしかわからないことがあるように、
その上、印刷のことはずぶの素人だから、
いろいろと話し合いながら仕事を進めていただいた。

東京印書館という印刷所に高柳昇さんという、
プリンティングディレクターと呼ばれる方がいらっしゃるが、
この方のおかげで、イメージに近い色、雰囲気を出すことができた。
高柳さんは仕事に熱い、色だしの名人で、
僕も持っている有名な建築の写真集も手掛けていた。

その高柳さん。
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建築だけでなく仕事に熱い人とのモノ作りはやっぱりいいなー。

春を恨んだりはしない

2011.04.15

地震が起きようと、津波が来ようと、原発が危険な状態にあろうと、
3年目の我が家の枝垂れ桜は何事もなかったように満開。
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先日の新聞に載っていたシンボルスカと言う人の詩、

またやって来たからといって
春を恨んだりはしない
例年のように自分の義務を
果たしているからといって
春を責めたりはしない

わかっている
わたしがいくら悲しくても
そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと

地震・津波・原発 Ⅴ

2011.04.07

未曾有の大災害に対し建築家に何ができるか?
地震の後、ずっと考えてきた。
ハウスメーカーはまだ足りないとはいえ、大量の仮設住宅を用意することができた。
しかし建築家はこの事態に対し、せいぜいやることができたのは避難所のプライバシーを守るための間仕切りをやっ、たくらい。
家を失い震え上がっている人々には何もできなかったのだ。
しばらくは僕らって何なんだろうと自虐的になっていた。

地震後一カ月近くなり建築界では学会を中心として復興計画が動き出した。
なるほど、僕らの役割は今回の被害を踏まえよりよい未来への提案し、実現化の手法を編み出すこと、なのだ。

今、心ある建築家たちが復興計画の在り方について考えていることは、
新しい開発の哲学、その手法は何か、ということではないか。
被災地には人間と自然が共生する中で築いてきた多様な地域性や文化がある。
それらを継続する復興が求められる。
だからその主体はその地域に生活する人々でなければならず、自力更生的復興でありたい。
だから均一化、標準化、効率化ではなく、多様化、混在、幸福、と言ったことが哲学として求められる。

しかし、果たしてこのような哲学を多くの人々がどのようにして共有できるようになるか、
その具体的手法は何か、多くの課題がある。

このまま放っておくと、また戦後日本が歩んできた近代化の手法にやられてしまうだろう。
利権が渦巻く中での復興であってほしくない。
今ほど建築家がわかりやすく、これからあるべき住の風景についての哲学を語り、実行に移すべき時は他にないのではないか。

作品集

2011.04.01

何年も前から作品集が出ます、出ます、と言い続けてきた。
しかし、なかなか出ないので、
「本当に泉さん出るの?」と思われ、
「羊飼いの少年」化してきていた。

しかし、何といよいよ来週印刷です。
原稿書きから、写真集め、デザイン、校正など何年もかかったのに、印刷はったたの2日で刷り上がり。
製本は1週間もあればできるだろうから再来週にはで出来上がるはず。

でも、世の中、こんな状況、出版のタイミングとしては最悪。
果たしてどうなることか、心配。

講演会のお知らせ

2011.03.30

僕の仲間の講演会のお知らせです。
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僕は4月24日に出ます。

地震 Ⅳ

2011.03.23

連絡が取れなかった仙台の建て主さんも無事だとわかりすべてOK。
よかった。

ところで僕がかかわっている、
「チルチンびと地域主義工務店の会」という、全国6~70社の工務店が集まって作っている団体あるが、
今回の地震での活躍は凄かった。

常日頃この会から僕のところにグループメールが来ていたのだが、
地震の後は毎日100近いメールが届いている。
何のためのメールかと言うと、
被災地救援のため、全国に散らばる参加工務店から物資を集め、被災地に届ける作戦のメール。

被災地の工務店からは今、何が必要か、
たとえばブルーシート、バール、ロープといった建築に必要なもの、
車を動かす石油、それに水や、食糧、使い捨てカイロなどと連絡が入り、
他の工務店からはどこの道が通れそうだとの連絡、
また全国の工務店から集められた物資は引き継ぎ引き継ぎで、新潟ルートで運搬。

11トン車と4トン者に満載された物資が届けられたのは、
地震発生から7日目には到着。
公的機関の援助より早かったこともかなりあったのではないか。

おかげで泉事務所で設計した仙台の現場は、
信じられないことに、先の見えない混乱した状態にもかかわらず、すでに動き始めている。
工事再開はしばらく厳しいのでは、、、と思っていたが、
ネットワークというものは本当に大事なもの、と思い知らされた。
「チルチンびと工務店の会」の皆さんに感謝。
工務店の会,立派!

今回の作戦は会に参加する工務店の互助もあるのだが、その他の方々への支援も行われた。
以下、物資を届けた工務店の方の一文を紹介します。
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物資が届いている所と、そうでないところのギャップが大きいです。
物資は、大きな避難所ばかりに偏っているようです。
仕方ないので被災地を社員と一緒にひたすら声掛けをして歩きました。
小さな災害集落は、断水がまだまだ、続いており食料はほとんど届いていないよ
うでした。。

「全国の皆様の気持ち。涙が出るほどうれしいです。」

「この集落には、まとめ役もいないし水も買いに
いけません。お店も全て流されました。ガソリンもありません。
生活雑貨。本当にうれしいです。しばらく、頑張れそうです」

「ここは、お年寄りばかり。。
このように、小さな部落を回って頂きこうして、ご支援まで。。
うれしいことです。
なんて、言ったらいいか分からないです。こんな年寄りまで
大事にしてもらい感謝です。本当にうれしかったです。」

「涙ばかり出ます。有難いことです。」

沢山の感謝の言葉を頂きました。
…………………………………………………………………………………………………………………..

地震Ⅲ

2011.03.19

地震や台風などの災害が起こると、
まず真っ先に考えることは、自分が設計した建物は無事か、ということ。
今回もそう。
これまでに仙台では2棟建てているし、
着工したばかりの住宅もある。
また郡山の建設会社のモデルハウスを一軒建て、またもう一つ工事中のものがある。

仙台の建物の一つは名取川の上流で、海から8kmくらい離れたところに建っている。
5km津波が登って来たことをニュースで知ったが、
川に近いことで心配だった。

数日間、なかなか電話しても通じず、心配は募るばかり。
5日後にまた電話したら、建て主さんのいつもの声。
声を聞いただけで無事に生きておられることが分かり、
思わず「あー、よかったですね」と。
建物は何の被害もなく、炊き出しに励んでおられるとのこと。

仙台ではもう一軒、広瀬川のすぐ近くに建てたが
こちらのほうもなかなか連絡が取れなかった。
そうしたら先方のほうからメールが来て家族全員無事だとのこと。
良かった。
耐震強度を通常の建物より1.5倍に上げているから、
大丈夫との確信があっても本当に心配なもの。

郡山の建物、現場も無事。

仙台の着工したばかりの建物はまだ基礎の段階だから心配はないが、
建て主さんとはまだ連絡が取れない。
これだけが心配だ。

泉事務所が設計した建物は無事だった。
しかし今回の地震では多くの方々が亡くなられた、ただただ冥福をお祈りするばかりだ。

地震Ⅱ

2011.03.16

地震の翌日、翌々日は長野県松本市での講演会、長野県の卒業設計の審査会が予定されていた。

12時の新宿発「あずさ号」で行く予定だったが、はたして電車は動いているのか?
朝起き、インターネットで電車の運行状況を探したがさっぱりわからない。
TVでも確実なことは分からないが、まだTVのほうが役に立つ情報が多かった。
(インターネットがこのようなときは役に立つと思っていたが、意外や意外。まだまだ一極集中型のメディアの役割は大きい)

とにかく新宿駅まで行ってみるしかなく行ってみたが、「あずさ」は動いてない。
主催者側から新幹線が動き始めたようなので、長野まで来てもらったら松本から迎えに行きます、とのこと。
しかし新幹線に乗るまでの山手線が動いていない。

どうにかこうにか松本まで行こうと右往左往したが、結局松本についたのは夜の8時。
もちろん講演会は中止で、明日の審査会のために前日に到着したようなもの。

主催者側の長野県の方々は当然懇親会を始めていて、別世界。
「大変でしたねー」とねぎらってもらったが、
こちらはまだ地震での興奮が冷めやらない最中、
別世界との波長と直ぐにはかみ合わない。
波長が合うようになったのは、かなり酔いがまわってからだった。

地震Ⅰ

2011.03.15

地震が起きた時、事務所で構造設計者と打ち合わせをしていた。
前ぶれの縦揺れはほとんどなく、大きな横揺れがいきなりきた。
僕の事務所の建物は古く、東京オリンピックのころにできた建物。
だから大きな地震が来れば危ないと日ごろから思っていた。

ゆっくりと大きな揺れだったが本棚が倒れるでもなく、
また事務機器が移動することもなかった。
建物が崩壊するにはこんな揺れくらいではまず起きない。
でも、所員はかなり焦ったようで、「先生、外に出ましょう」と促され、
皆で事務所が面する明治通りに飛び出した。

明治通りには10階くらいのマンションが建ち並んでいるが、
上のほうがグラグラと揺れている。
構造設計者のH氏はその様子を見て、「剛性が低い[E:angry]」などと解説。

そのうち明治通りは帰宅者や、避難場所に指定されている近くの学習院へとぞろぞろ歩き始めた。

学習院へは野次馬根性もあり行ってみることに。
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若い人ばっかり。
会社から避難するように言われたのかなー。
本チャンではお年寄りはどうやって避難するのだろう。

4時から板金屋との打ち合わせがあったので、
事務所に戻る。
打ち合わせをしながらも、まだ余震でたびたび揺れる。
所員に「先生帰りましょうよ」とまた促される。

俺は「ここで死んだら本望だ」と見えを切る。
もう大丈夫との確信もあったが、
胆力、根性が違うワイ、と内心ほくそ笑む。
それにしても僕はやっぱり事務所が好きなのだ。

先に所員を返し、一人で明日の講演会のパワーポイント作り。
用意も終わり車で家路についたが、
明治通りは帰宅者で人の波。
歩きの人を横に見ながら車で出たものはいいものの、車が動かない。
表通りは歩行者と同じ速度でしか走れない、しかし裏道はガラガラでスイスイ。
それでもわずか3~4kmを1時間以上かかった。

泉事務所陸上部

2011.03.07

事務所のある目白ではこの季節にロードレース(マラソン大会)が開かれます。
学習院やその周辺をぐるぐると5キロメートル回るというもの。
学習院の中には心臓破りの坂があったりしてかなりきついらしい。

その大会に泉事務所からも元気のいい若手が3名参加。
日曜の朝だったのだけど僕も応援に出かけた。

そしたら何と、30歳以下の女子部で事務所の所員が4位に入賞!
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彼女は元陸上部、400mの選手で、ラストスパートで何人も抜いたらしい。

大会に登録するときに名前と所属「イズミジムショ」と書いそうで、
事務所の名前を汚さないように頑張りまーす、何て殊勝なことを言ってたけど、
ヨシ、ヨシよく頑張った!

来年は旭化成とかSB食品、資生堂のように「イズミジムショ」の名前入りのランニングウエアーでも作りましょうか。

饗食の銀シャリ

2011.02.21

下呂(下呂温泉の下呂)出身の所員のK君が、日本一美味しい米が田舎から送ってきました!とのことで、
昼ご飯は米を炊いて皆で食べることになった。
(ときどきパスタはやっているけど御飯を炊くのは初めて)

事務所の近くには美味しい店がなく、昼食にはいつも困ってしまう。
米の名前は「龍の瞳」という。
なかなか入手できない幻のコメらしい(K君談)。

せっかくの米ならばと、
炊いて皆で食べようよ、となって、
炊飯器はどうするか、オカズは何にするかと2~3日前より打ち合わせ。
炊飯器はFさんが五合炊きを持っているとのことで、リュックに背負って持ってきてくれた。
また田舎の磐田から産直でシラスを取り寄せてくれた。
青森出身のK君は「燻りガッコ」を供出。
もう一人のK君は自宅で使う予定の山芋を供出。
他の所員は持ち合わせがなく供出物なし。
買ってきた卵焼きなどの惣菜代は泉が供出。

そのようにして本当においしい昼ご飯にありつくことができた。
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ご飯も本当においしかったが、
皆で作り、シェアして食べることでさらに美味しくなった。

孤食という言葉があるけど、
その反対は共食。

余談だけど、もう一人のK君の修士論文は「供食」に関する、
建築の何ちゃらカンちゃらだったらしい。

名著

2011.02.17

建築関係の人は読むべし。
いい本が出ました。

いつぞや日土小学校を設計した松村正恒のことを書いたことがあります。

この日土小学校の保存再生に深くかかわれた花田佳明さんから、
「建築家・松村正恒ともう一つのモダニズム」という本を出したとの案内を頂いた。

さっそく神田の南洋堂に行って、出来立てのホヤホヤの本を見たのだけど、何と4~5センチもある分厚い本。
それにこの本は博士学位論文が元になっていて、なおさら読み切るには根性が入りそう、に思えた。

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博士論文だから、著者には失礼なことだが重箱の隅をつつくようなことが書いてあるかも、
と最初はちらっと思ったが、とんでもない。

事実を淡々と描いてあるのだが、感動させられたり建築家として身につまされるような内容があったりと一気に読み通してしまった。

松村正恒のことを書いてあるのだが、実は現代建築や建築家に対する全面的な批評となっている。
多少は建築論を読んできたが、これは名著に入れてもおかしくない本だ。

それに余談だが以前紹介したことのある本、「蚯蚓のつぶやき」を書いた河野通祐さんが何度も登場したりした。

本の表紙である上の写真を見ると松村正恒は建築家らしくないスタイル。
髪は七三に分け刈り上げ、それにスリッパを履き、どこかのオヤジとでも言ってもいい風貌。
最近でっかい水玉模様のシャツなぞを着た建築家がいるけど、
松村正恒のこの格好を見せてあげたい。

講演会のお知らせ

2011.02.07

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長野県松本市での後援会のお知らせ、です。

日時は3月12日(土)16:00~18:30

松本市美術館講座室

なぜ民家にモンドリアンのようなファサードが?

2011.02.02

この柱って、行き当たりバッタリに建てたの?
バッタリのようだけど、美しく、何か秩序があるような気もする。
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川崎市の日本民家園にある「旧広瀬家住宅」です。
もともとは甲府盆地にあった17世紀末の農家を日本民家園に移築したもの。

日本民家園に行ったことのある人は、この建物の西側側面を覚えておられると思う。
みんな気になっているようだ。
ふつう民家は規矩正しく等間隔に柱が立っているが、
この側面のリズム感のある構成はどう理解していいかわからない。

行くたびに気になっていたが、ずーっと放っていた。
昨年行ったときに何故?と改めてよく見てみら・・・・
見えてきました、見えてきました!
このようなことでしょうね。
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① 外壁面と垂直方向に間仕切りを作るために柱A B D Fを入れる。
② BD間、DF間はスパンが長いのでC,Fの柱を入れる。
③ 柱間を6、4.5、6、6、6尺と推定する。(4.5尺は6尺の3/4)
(なぜ6、6、6、・・・・とせず間に4.5尺が入ったのかは不明)
④ その結果、棟を支える柱C´はDから2.25尺ズレることになる。
⑤ 梁レベルⅡにおいて、BC´間はスパンが飛んでいるので2等分したところに束を立てることにより、
柱Cと0.375尺(約11㎝)ズレたと理解できる。
⑥ 梁レベルⅡにおいてBC´間、C´E間は等距離なので、梁は水平に一直線につながるはずだが、
柱C´でずれている。それはホゾ抜きし、込栓を打つためにお互いにズラしたと理解できる。

このようにしてモンドリアン風壁面が生まれた。

以上、どうでしょう。

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