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僕もちょっとだけ関わった二冊の本の紹介

2024.07.12

本の紹介です。
布野修司さん編集で、若い建築研究者、建築家の論客でまとめられた住居論。
「はてしなき現代住居 1989年以後」です。
1989年というとバブル崩壊や昭和から平成へ年号が変わった頃だが、もう35年もたったのかとビックリもするが、でもそんな前でもない。。
そんな近過去だから、その間の住居の課題は現代においても地続きで、過去を見るというよりこれからを考える材料にもなる、そんな本だ。
この本の中に1989~2019の住居50選というのがあり、拙作のApartment鶉(じゅん)も取り上げられている。
近35年の近過去ではあるが、そのような歴史の中で自分の作った建物がどのようにとらえられるのか、大変興味があった。



もう一冊。
自分がかかわっている「和室」を世界遺産にする会から出版した本で、
和紙礼讃です。
こちらには僕もちょっと書ていて、「写す—表千家残月亭と村野藤吾自邸」を書いています。
この世界遺産にする会は「現代・和室の会」といいます。
和室に興味のある方は是非加入を。

建築家がお薦め 三ツ星★★★建築の旅シリーズⅡ-5 フランス プロヴァンスの三姉妹           

2024.06.11

プロヴァンスの三姉妹
フランスに修道院は数あれど、特別に「プロバンスの三姉妹」と呼ばれる三つの修道院がある。
一つは前回紹介したル・トロネ修道院、それにシルヴァカーヌ修道院とセナンク修道院の三つ。
いずれもシトー派の修道院で、12世紀に作られた、つとに美しく有名な修道院である。
この三姉妹のあるプロヴァンスは自然も豊かだが、旅した5月はプロヴァンスの最も美しい、いい季節に巡り合わさった。
車中の4人は左右の風景を見ながら、もう有頂天だった。
右側を見ると、青々としてたわわな麦畑が五月の風で大きく波打つ。
ところどころにポツポツとポピーの花まで咲いている。
フランスは農業国だと言われるが、本当にそうだと実感できる。
その向こうの山は多分セザンヌが描いたサント·ヴィクトワール山か。

毛足の長い絨毯のような青々とした麦畑

そのような風景を見ながらシルヴァカーヌ修道院に着く。
シルヴァカーヌ修道院で僕が気に入ったのは大きな聖堂ではなく、小さなチャプター・ハウス(会議室)と呼ばれる一室。
部屋の中央に二本のピラー(柱)がある。
一つは渦巻ていて石の重さを感じさせず、もう一本はとってもスリム。
そのピラーから、程よい大きさのふくよかなオジーヴ・ヴォールトと呼ばれるアーチが八方に伸びている。

シルヴァカーヌの集会室
シルヴァカーヌの集会室のピラー

シルバカンヌからセナンクへ行く途中、車が道をカーブすると突然山岳都市(ボニューBonnieux)が現れた。
近づくと何百年も経っていると思しき古い建物だが、まだ立派に使われている。
このあたりの建物はバカンスに来る人々によく使われているらしいとのこと。
電柱も看板も一つもない。建物と自然が一体になっている。
何か豊かだよね~!と思わず言葉がもれる。

ボニューBonnieux

さらに進んだ先のセナンク修道院です。

手前はラヴェンダー畑。

セナンクの地下室。
どういうわけか、上の聖堂もいいが、地下もいい。
エッジがきいた単純な造形だがどっしりとしている

シトー派の修道院には回廊がつきものだが、もちろんトロネやシルヴァカーヌ、セナンクにもある。
この回廊を見比べるのが面白いことに気づいた。
この後にもいろいろな回廊が出てくるが、中庭に面して列柱があり、それぞれの修道院ごとに柱の形や並べ方に工夫を凝らしている。
柱が2列だったり、それがずれていたり、リズムが入っていたり、また回廊のコーナーの納め方がそれぞれ違っていている。
よく見ると列柱と列柱が直角にぶつかるコーナーの納め方は苦心しているようで、解決の仕方が修道院ごとに異なる。

まだ旅は前半だが、建物の配置計画や石のテクスチャー、その石が生み出す光など、少しずつ見え始めてきた。
見えてくれば見るほど、ただただ、すごいな~、これすごいよ~と同行の建築家たちと声が弾む。

アヴィニョン、アルル、サン・ジル教会
「プロヴァンスの三姉妹」からさらに西へ。
「アヴィニョンの橋の上で♪」という歌で知られているアヴィニョンへ。
アヴィニョンではやはりロマネスク時代の教会などを見る。
さらにアルルではゴッホが入っていた精神病院も見る。
精神病院を見たのは、確かゴッホが描いた精神病院があったよなー、くらいの記憶があったから。
建築的な期待をしてたわけではないが、何となくついつい。
しかし、昨日見た素晴らしい「プロヴァンスの三姉妹」を後だけにガッカリ。
修道院をコンバージョンし、黄色いペンキを塗ったひどい建物で、見なきゃよかったと後悔。

ゴッホが療養していた精神病院

ここにゴッホの絵があるわけではない。
やはり旅は、これっ!と思ったものを見るのがよい。
つぎにアルル近郊のサン・ジル教会(SAINT-GILLES)。
サン・ジルは立派な門構えのロマネスクの教会。
それに門の前にも立派な階段がある。
この階段に腰掛け、僕ら4名の御一行様は、フランスパンと水だけの昼食をとる。
この頃、超貧乏というわけでもなかったのだが、ロマネスクの堂々とした教会を背に、見上げると南仏の明るい空、階段に座って食べたパンが美味しかったこと。
そのおいしさは30年後の今でも記憶に残っている。

サン・ジル教会前の石段でフランスパンの昼食をとった

入り口の上にはやはりたくさんの図像が彫ってある。

サン・ジル教会の入口上部。入角に「弟子の足を洗うキリスト」がある

サン・マルタン・ド・ロンドル

モンペリエを通過し、サン・マルタン・ド・ロンドル教会(SAINT MARTIN DE LONDRES)へと向かう。

サン・マルタン・ド・ロンドル教会
サン・マルタン・ド・ロンドル教会は周りの建物で城壁のように囲っている

円形のアプスや軒のジャバラなどはロマネスクのおおらかな形態が残ったいい建物だが、周りに良くない部分が混在している。
この教会は200年くらい前に大改修をやったらしい。
帰ってきてわかったのだが、この建物のオリジナルな部分は、この後に見ることになるギレムの修道院の修道僧によって作られたものとか。
ギレムはこの旅で見た3本の指に入る素晴らしいロマネスク建築だったが、なるほど、ギレムと同じ人たちが作ったのなら、改修の前は相当よかったんだろうな、と想像できる建物だった。
いい建物を後世に改修し、ダメにしてしまうのは何時でも、何処でも同じことなのだろう。
作った者たちの思いを理解しない人間が今でも横行している。

このあたりの街で見た住宅です。
フランスだなー。

サン・ギレム・ル・デゼール修道院
サン・マルタン・ド・ロンドル教会から、サン・ギレム・ル・デゼール修道院(Saint-Guilhem-le-Désert)へ。
ギレムは修道院も圧巻だが、山奥の渓谷の村にあって美しい。
フランスでも有数の美しい村に数えられているらしく、まずはこの村のことから。

サン・ギレム・ル・デゼール修道院のある村

古い村で、スペインへのサンティアゴ・デ・コンポステラへ向かう巡礼者が立ち寄る聖地でもあった。
日本とは違い石造りだから、建物の寿命が格段に長く、中世の世界に迷い込んだようだ。
ギレムの教会の前には広場があり、プラタナスが植わり、カフェテラスの椅子が並べられている。
ちなみに、奥の建物の3階、右側が僕の泊った部屋。
1階はバール(飲み屋)。

サン・ギレム・ル・デゼール修道院前の僕らが泊まったプチホテル
リノベを繰り返し、時を経て生まれた玄関

街中を歩いていると、こんな仕上げがさり気なくある。
金物の堀商店のレバーハンドルにこんなのがあったような気がするが、勿論こちらが元祖
ギエムの修道院を裏側から見る

教会堂の内部です。

わずかに開口の周りに手を加えただけで、小手先を使ったようなところが微塵もない。
ただただ石を積んだだけ、のようにも見える。
だが、心揺さぶられる壁だ。
それは石の質感か、光か、石の積み方か、石工の気持ちが伝わってくるのか、そのいずれも、なのだろうが、この良さを何と表現したらいいのか、なかなか言葉が見つからない
静謐、何の衒いもない・・・、いやいや、そう簡単ではない。
ル・トロネから始まり、このあたりに至ってもうロマネスクの虜になってしまった。
あ~、何と美しきことか!
ロマネスクの美しさは造形的に上手下手といった単純な世界ではない。
宗教が関与しているからか、人を包み込む優しさ、安心して何かにゆだねることのでる懐の深さがあるからなのか。

サン・ギレム・ル・デゼール修道院の聖堂内部。十字架と二つの丸は壁に穴を開けただけ

サン・ギレム・ル・デゼール修道院のあるギレムで泊まったホテルは、プチホテルとよく呼ばれる。
何百年も経った古い建物を改修したものが多い。
建築史の専門家ではないから確かなことは言えないが、ロマネスクやルネッサンスの時代に遡ることができる建物ではないか。
そのような古い建物に宿泊できるとは最高に幸せだ。
日本で言えば、江戸、室町時代の建物に泊まっているようなもの。
外壁は古い石積み。

しかし、石造とは言え、床や屋根などの水平方向は木造でできている。
これは世界共通。
アーチの石積みで床を持たせることもあるが、多くは水平方向に木の梁を渡し、床や屋根を支える。
天井を見上げると古い黒々とした梁が渡してある。
壁は多くの場合、漆喰。
クロスのようなチャライ材料は使ってない。
ある意味、何もしてないと言えばそうなのだが、それがいい。

泊まったプチホテルの部屋
泊まった部屋から向かいの家が、そして窓の上部外に荷揚げのための滑車が見える。

ベッドのシーツはきれいだし、シャワーもよく出る。
(たまにそうでないこともあるが…)
これで、当時の価格だが、1泊2,000~3,000円!
勿論、素泊まりだけど。
こういったことこそ豊かさ、じゃないのかな?
この旅は大まかな目的地を決めて出発したが、厳密なスケジュールはなく行き当たりばったり。
だからホテルも目的地に着き探すことになる。
フランスでは部屋を見せてもらい、気に入ったら宿泊を決めることができる。
このようなプチホテルを探しながらのロマネスクを訪ねる旅だった。

パターン・ランゲージ研究会

2024.05.29

20年ぶりにパターンランゲージ研究会を始めた。
以前は繰り返し何度も研究会をやっていたが、久しぶりに若い人たちに促されて研究会をやることになった。
「パターン・ランゲージ―環境設計の手引き」は1977年にクリストファー・アレグザンダーによって書かれた本。半世紀前の出版にも関わらず根強い影響力を持っているから、そろそろ古典と言っていい本。
残念なことに著者本人は一昨年85歳で亡くなった。
このパターン・ランゲージの日本における受容、解釈は人によりさまざま。
純粋に研究対象の書としてとらえる人、実践のための書として、また建築家、都市計画家、行政にかかわる人とその立場によって読み方、利用の仕方が変わっている。
僕は30歳代の頃、アレグザンダーの下で仕事をしたことがあるから、この本だけでなく、実際の生身の建築家アレグザンダーからも強い影響を受けた。
僕にとっては、 「パターン・ランゲージ」は 建築、都市のより幅広い認識のための眼鏡と言っていいような本。
もっともアレグザンダーだけでなく、他の先生の「度」も僕の眼鏡に入っているけど…。

随分たくさん集まってくれて、「あとりえずbldg.」は満杯。
パターンランゲージの中から毎回1つのパターンをテーマにし、各自がそのパターンに倣い自分なりに発見した事例を発表するというスタイル。
この「自分なりに」というのが結構難しいよう。
つまり「自分自身になる」というのが難しい。
これが建築家になるための一歩かも。

建築家がお薦め 三ツ星★★★建築の旅シリーズⅡ-4 フランス              ル・トロネ修道院  

2024.05.15

ロマネスク建築、シトー派の修道院

前回のフランスの歩き方1に引き続きフランス、ロマネスク、シトー派修道院の旅。
前回のフランス中部のディジョン近くにあるサント・マドレーヌ大聖堂はスペインへの巡礼の道、サンチャゴコンポステーラの出発点だったが、他にもその出発点は多数ありサンチャゴへ、サンチャゴへと連なっている。その一つにイタリアに近いフランス東部を出発点とした地中海沿いの巡礼の道がある。

イタリア近くから、地中海を内陸部へやや入った山間の道を西へ、西へと進むと、そのうちに左手(南側)にあった地中海がピレネー山脈に変わる。このピレネー山脈を越えてスペインに入り、そしてサンチャゴに至るコースだ。
その山間の巡礼の道沿いに、心が揺さぶられるほどに美しいロマネスク、シトー派の修道院が点々と散らばっている。これまでの旅の中で、この旅ほど、宝石箱に入れ大事にとっておきたいと思える旅は他にはそうない。

それは何と言っても素晴らしい修道院の数々に巡り合うことができたからだが、その体験を通して、自分の中に新たな美のありようを発見することができたからだ。西洋の建築が石造であるにもかかわらず、何と優しい肌合いと造形をしていることか、そしてそれが何故可能なのか、そのなぞ解きの旅は、感性と知性を全開しながらの、新たな美への発見の旅であり、これほどワクワクするものはない。

素晴らしい旅には、このような感性と知性が行き来するワクワク感が漂っている。

旅の仕方もよかった。旅のきっかけは、例のごとく数枚の写真からだった。その写真の建物がロマネスク建築ということは分かってもそれ以上のことは何もわからなかったが、その建物たちには何かビビットくるものがあった。是非見たいと思った。

と言っても、当時どのあたりにいいロマネスク建築があるか見当もつかなかった。まずは建築や美術書をあさることから始めた。そうやっていたら、どうもロマネスクの中でもシトー派の建物がいいらしい、そしてそれがほぼフランスにあるらしいと段々と分かってきた。

それでもフランスのどのあたりになのか、具体的ことはもう一つよくわからない。

この旅に決定的に重要かつ貴重な情報を教えて頂いたのは、知り合いの知り合いで、美大の西洋美術史の教授だった。焼鳥屋だったかで、フランス全土の地図を広げ、ここは、という建物の場所をプロットしてもらった。やはりその道の大家に教えてもらったことで飛躍的にレベルの高い旅が可能となった。

それでも行くべきところの当りは付いても、実際にまだ行ってないのだから、行くべきところはまだ漠然としてしている。
行く前と、行った後ではその場所への把握のありようがまるっきり変わってくる。行く前は暗中模索のイメージが彷徨っているだけだが、行った後は何らかの確かなイメージが焼き付く。
その落差がある旅ほどワクワクし、記憶に残る。それにはやはり旅は行く前の茫漠としてでも自分の中に、確かではないが強く、かってに彷徨う何かがあるほどいい。そのような彷徨いはツアー旅行では得られない。行くまでの彷徨いが大事だ。

一緒に行ったのは建築家の友人で、総勢4名。同じ志を持った建築家との旅は楽しい。
8泊9日のレンタカーでの旅。前の席に二人、後ろの席に二人で、車中でも話が弾んだ。そしてできるだけ旅の偶然性も受けいれようと、主要な見学先と夜の宿泊先の町を大雑把に決め、途中に思いかけずに良いところがあれば、車を止める。食べるところ、飲むところ、泊まるところも行った先々で探す…。

フランス全土の地図の中の行くべき場所は決まっているが、車で旅することになると詳しい地図が必要になる。まだカーナビがないころだったから、ミシュランの地図と、ミシュランのグリーンガイドブックがよりどころとなった。

このミシュランの地図とグリーンガイドブックは関連付けられていて、車での大きな移動は地図で、目的の町に着いたらグリーンガイドにスムースに移行でき、街の概要や、見るべき建物の場所、解説が丁寧に書いてある。この地図とガイドブックさえあれば地球上の目指すところに正確無比に、確実に到達できるようになっていて、さすが、デカルトの3次元グラフを生み出した国、と思わずにいられないものだ。

今はカーナビがあるから地図の必要性は薄れたが、グリーンガイドブックは今でも最もすぐれたガイドブックだ。どこかの国の「地球の○○○」とは比べ物にならない知的レベルの高さがある。恐らく何人もの学芸員の手になったものだろう。
フランス (ミシュラン・グリーンガイド) ペーパーバック
残念なことに次の本は現在古本しかないが、古本でも求める人は多い。
プロヴァンス 全改訂版 (ミシュラン・グリーンガイド) ペーパーバック

ル・トロネ修道院

前置きが長くなったが、まずは成田からパリ、そしてニースへ。

ニース・コートダジュール空港でレンタカーを借り、西に向け高速道路を走り始める。左下に(地中海側に)、見るからにリッチそうな雰囲気が漂う世界有数のリゾート地であるニース、カンヌの海岸や街が通り過ぎる。だが、無視。

我々は、ロマネスクを見に行くのだ‼とばっかりに、高速道路をひた走る。

最初に目指す建物は建築家の間では有名なル・トロネ修道院だ。
何故この建物が有名かと言えば、ル・コルビュジェが彼の代表作の一つであるラツーレット修道院を設計するにあたり、参考にしたことからだが、僕にとってはもう一つ、フェルナンド・プイヨンという人が書いた、「粗い石」という本を読んだことにもよる。

「粗い石」はル・トロネを建てた工事監督の日記という形で書かれている。修道士でもある建築家が建設を行うにあたり、今の私たちと同じように技術や予算などと格闘し、さまざまな障害によって精神的苦悩にさいなまれることなど、中世の建築を身近に感じることができる。建築の名著の一つ。

ミシュランを頼りに、ニースから西へ180Kmくらい離れたところに私たちが目指すLe Tholonet(ル・トロネ)がある。
Le Tholonetに着きいよいよ、ル・トロネ修道院を見ることができると、ワクワクしながら探すのだが、なかなか見つからない。
村の人に、Abbaye!Abbaye!(修道院)と言って尋ねたが、指さしてくれる建物は写真で知るトロネとはとても似つかないもの。

何処を見回しても写真で見たトロネがない!ミシュランで来たのに、何故ない?不安感がモウモウと立ち上がる。誰もフランス語ができない私たちのグループ。
もう一度地図をよく見たら、このLe Tholonetと出発したニースとの間に、Le Thoronetがある。なんとlとrを間違っていたのだ!!!

また高速道路をニース方面に引き返す。東京から三島あたりまで引き返すことになった。

Le Thoronetに着いたときには午後も遅くなっていた。ヨーロッパの夏の日暮れは遅いと言っても、もう薄暗くなり始めた頃だった。

でもいいこともある。おかげで観光客もほとんどいなく、静か。ひっそりとして我々が貸し切ったようなものだった。我々4人は静謐なル・トロネの世界に包まれた。
旅はそんなものだ。

ロマネスク建築の素晴らしい写真集です。
石と光 シトーのロマネスク聖堂
田沼武写真集ロマネスク古寺巡礼

次回「フランス、シトー派修道院、その3」へと旅は続きます。

建築家がお薦め 三ツ星★★★建築の旅シリーズⅡ-3 フランス フォントネ―、トゥルニュ、ヴェズレー

2024.04.04

日本人にとって石は冷たく硬いもの、というメージが強いのではないか。もちろん石は木より冷たく硬い。しかしヨーロッパ建築には、同じ石でも人を柔らかく包み込む、優しい印象がある。

日本には豊富な森林資源があることから、建築の一部分を除き、あえて硬い石と向き合う必要もなく、西洋ほどには石の文化が根付かなかったからだろう。
石の硬さのイメージを払拭し、その優しさを教えてくれたのはフランスにある数々のシトー派の修道院を中心に見て回った旅からである。そのようなフランスの第1回。

シトー派は11世紀末にフランスの中部ディジョン近郊のシトーで起こった、戒律がとっても厳しいキリスト教の一派。宗教はある時期になると堕落することがよくあり、改革運動、つまり宗教改革が時々起こる。シトー派もそのような改革運動の中から生まれ、人里から離れた静寂な森の中の修道院で、祈りと労働に没頭し、禁欲的な生活を営んだ。その厳しさは想像を絶するもので、あまりにもの厳しさで病に至り、30才くらいで死に至る者もかなりいたらしい。

建物は十字架以外の装飾はほとんどなく、窓は小さくて薄暗い瞑想にふさわしい空間となっている。そのようなシトー派のことを知った時に、やはり戒律が厳しい禅宗曹洞宗の永平寺を思い出した。時代が中世であるのも似通っている。
ちなみに日本でもこのシトー派の流れをくむ修道院がある。クッキーやソフトクリームでも知られる北海道のトラピスト修道院である。

このフランスの旅ではシトー派以外の宗派のキリスト教の建物も出てくるが、同じキリスト教でも宗派により、つまりその教義によって建物もかなり変わってくることも知って頂けたらと思う。


フォントネーのシトー会修道院
シトー派発祥の地シトーから近いところにある「フォントネーのシトー会修道院」は現存するシトー派で最も古いと言われる建物。世界遺産にもなっていて、フランス中部のブルゴーニュ地方のディジョンから北西へ60㎞くらい行ったとことにある。フォントネ―の意はうれしいことに「泉」。生活に水は必須だから修道院の敷地を決めるのに泉が湧くところを探し求めた。

「フォントネーのシトー会修道院」の聖堂には、教会によくあるステンドグラスといった装飾的なものがなく、ポツンと祭壇が置かれているだけだった。世界遺産でもあり、何だか遺跡のように思えなくもなかったが、そもそもそういうものだったらしい。フォントネ―を歩いていると柱頭にわずかな装飾があるだけだが、アーチの優美な曲線と美しいプロポーション、それに石のテクスチャーだけで優しい空間を作っていた。

フォントネーのシトー会修道院 聖堂
フォントネーのシトー会修道院 廻廊の柱
フォントネーのシトー会修道院
フォントネーのシトー会修道院


アベイ・サン・フィリベール Abbaye Saint-Philibert de Tournus
ディジョンから南へ70~80㎞下った片田舎にある修道院。
何世紀にもわたって作られたから、さまざまな様式が混在した複雑な建物になっているが、不思議とまとまりのある建物だ。だからシトー派を表していると言えないが、僕はとっても好きな建物だ。身廊の天井高は18mもある。淡いグレーとピンクの石、そのテクスチャーが組み合わさって、柔らかな空間を作っている。

アベイ・サン・フィリベール 聖堂

この修道院内を探索していたら何とも不思議な作りのところに入り込んでしまった。増改築を繰り返したからこのような空間が生まれたのだろう。ウンベルト エーコの小説「薔薇の名前」に出てきそうな建物だ。

アベイ・サン・フィリベール
アベイ・サン・フィリベール


サント-マドレーヌ大聖堂 La Basilique de Vézelay
ディジョンから西へ約100km行ったところに、フランスで最も美しい村といわれるヴェズレーがあるが、その丘の上にこれもまた美しいサント-マドレーヌ大聖堂がある。この建物は装飾も多く華やかで、シトー派が否定したクリュニー派の修道院である。

仏教でキリスト教の聖遺物に当たるものはお釈迦様のお骨で、スツーパや五重塔の下に壺に入れて埋める。つまり五重塔はお釈迦様のお墓。
一方キリスト教の聖遺物はさまざまにあって、キリストだけでなく聖人に取り挙げられた人の骨や彼らにかかわる物もある。それらを保存していると奇跡が起こったりして、その教会には信者が集まる。その中でも有名なのがイタリア、トリノの「聖骸布」で、イエス・キリストが磔にされて死んだ後、その遺体を包んだとされる布、ご存じの方も多いだろう。

このサント-マドレーヌには「マグダラのマリア」(フランス語でサント=マドレーヌ)の聖遺物があり、これがこの修道院の名を有名にした。またここは、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼の道のフランスにおける始点でもある。サンチャゴ・デ・コンポステーラの終点はスペインの西の端にあるサンチャゴで、サンチャゴには12使徒のひとりヤコブ(スペイン名・サンティアゴ)の墓がある。ここフランス中部からスペインのサンチャゴまで直線距離で1,300㎞、このヴェズレーから巡礼の道が始まる。

僕がここを訪ねたのは冬の寒い日だった。時期が違えばもっと華やかな聖堂だっただろうが、丘の上から見える枯野の先の、気の遠くなる程に遠いサンチャゴへの巡礼の道を思うと、中世の宗教の力は本当に凄いものだと思った。

サント-マドレーヌ大聖堂 聖堂

正面扉上にはロマネスク彫刻の最高傑作「聖霊降臨」のタンパンがある。

サント-マドレーヌ大聖堂 タンパン

ディジョン近くのヴェズレーやフォントネーなどのあるブルゴーニュ地方は、ワインや食事が美味しいところ。それだけでなく建築も美味しい!

講座「住宅設計の考え方」を読み解く 第三期のお知らせ

2024.03.29

拙著「住宅設計の考え方」を読み解く講座です。
好評につき、今年がその第三期目です。
大部の本ですので、中々読むのは大変!
全7回の講座でどのようなことが書いてあるか、かみ砕いて説明します。
また本には書いてないことや、写真を交えて説明します。

申込は jyuutaku.izumi@gmail.com

なすこんしゃ

2024.03.13

日頃持ち歩くバックにこれという気に入るものがなく、長い間探し続けていた。
ある時、かばん屋の前を歩いていて、ふと店を覗いたら、奥から訴えるように輝いているバッグがあった。これっ!!と思った。
この店は製造販売している店なので、若干の手直しはやってくれるとのことで、肩にかけるベルトの幅は少し広くし、ずれないようにしてもらった。
またバックの中のポケットは4つだったものを6つにして、いろんなものを整理して入れられるようにカスタマイズしてもらった。
気に入っていたので、毎日長い間使い続け、ずいぶん傷んでしまった。

久し振りに、ご夫婦でやっておられるこの店、なすこんしゃに行ったら、少しお歳を召しておられたが、以前注文したことを覚えておられた。
今回はA4が入りやすいように幅を15ミリ、また高さを10ミリ伸ばしてもらった。
また前のカバンよりも皮がイタリア製の牛皮になり、さらに良くなった。

建築の仕事をしていると、建築以外の物でも大体の原価が想像つく。
これを作るのに大よそ何日かかり、材料費を入れて大体このくらいだろうと計算する。
これを作ったご主人に聞いたら、このバックで2日位かかるとのことで、ピッタリだった。
これに材料費やらなんやらを入れたら,この売値ではもうからない仕事だなー、と思った。
とともに、感謝したい気持ちで一杯になった。
だから黒バージョンもお願いした。
(なすこんしゃは神楽坂、赤城神社横の坂道を下った右側)

それでも街にはこのバックより安いバックがあふれているが、それは大量生産されたもの。
にもかかわらずブランド品になるとこのバックよりはるかに高い。
手作りの一品生産は価格では大量生産品には太刀打ちできない。
しかし、味わいが全く違う。
この鞄の縫い目は丁寧に揃うように縫ってある。
見ただけで心が入っていることが分かる。
プレファブと職人の手仕事による住宅では全く異なるのと同じで、建築と同じ世界だなー、と思った。
職人の誠実な仕事がもっと認められる世の中であって欲しい。

茶バージョン
黒バージョン

建築家がお薦め 三ツ星★★★建築の旅シリーズⅡ-2           フィレンツェ・アッシジ・ペルージャ

2024.02.21

花の都フィレンチェ

イタリアは芸術の国。華やかな街と言えばパリが定番だが、イタリア、フィレンツェも負けてない。
パリにはノートルダムがあるが、フィレンツェには「花の大聖堂」、サンタ・マリア・デル・フィオーレがある。「花の大聖堂」の方が圧倒的に明るく、楽しい。
辻邦夫の小説に「春の戴冠 」というのがあるが、ルネッサンス期のフィレンツェを題材にした小説で、タイトルに春という言葉が入っている。実際フィレンツェを体験すると春だの、花などという言葉が相応しいのがよくわかる。

イタリア人の色のセンスは抜群、フィレンツェの町のショーウィンドーを眺めていると僕らにはとてもこのような色は出せないなと、ため息が出るほどに美しい色使いの商品が並んでいる。日本にも誇れる色合いがあるが、フィレンツェは格別だ。そして何と言ってもルネッサンスの美しい建築や、彫刻、絵画が至る所にある。

フィレンツェでの強烈な体験はサン・マルコ修道院だった。
修道院のL字に折れる階段を曲がり、上がった先を見た時に思わず「あっ」と声が出た。その先には美しい絵があった。何となくこの絵が美術史的に有名なことは知っていたが、そういう絵もあったよね、程度だった。そもそもこの絵を見るまで僕はキリスト教の宗教絵画に興味がなかった。僕の田舎である熊本県八代ではキリシタン処刑の址に教会が建っていて、キリストの磔(はりつけ)の絵がロウソクの匂いとともにあった。聖書にちなんだ絵は多くの日本人にとってはそんなものだと思う。

しかしその絵を見た瞬間、その絵の美しさに、そして階段を曲がって見上げると突然現れるという劇的効果からか、声が出てしまった。うす暗い階段の先に、窓からの明かりでそこだけが照らし出された絵は、淡い色使いの、清らかで優しく甘美、天国的な明るさとでも言えばいいのか、大天使ガブリエルが処女マリアに、神の子を身ごもったことを伝える「受胎告知」の絵だった。

画家の名前はフラ・アンジェリコ。ルネッサンスの画家。フラ・アンジェリコはヴァザーリによる『ルネサンス画人伝』の中で、「神への献身と現世と隣人への奉仕に生涯をささげた。質素で品性の純潔な人物であった。俗界の喧騒をまったく遠ざけ、美しく簡素な生活を送り、貧しき人々の友であった。よって今では、その魂は天上の友として遇されているだろう。修道僧といる時も、信じがたいことだが、怒った顔一つ見せなかったのは立派というほかない。友をさとすにあたっても、率直なほほえみを絶やさなかった。画筆をとる前に必ず祈りの言葉を唱えたという。キリストの処刑図を描くときは、涙がつねに彼の頬を濡らしたという」とある。キリスト教の宗教絵画にも興味を持つようになったのは、この絵を実際に見てからだ。やはり絵は本物を見ないと分からない。

サン・マルコ修道院のフラ・アンジェリコ「受胎告知」 L字の階段を上がった正面に突然現れる

この絵のある修道院の2階は修道士の個室、僧房になっている。僧房には聖書にちなんだ絵が描かれていて、それらの絵も美しく見て歩くのも楽しい。

サン・マルコ修道院の僧房

サン・マルコ修道院の僧房の一室、各室にフラ・アンジェリコのフレスコ画がある

フラ・アンジェリコのこの絵のように、ルネッサンス絵画の多くはフレスコという手法で描かれている。絵を描く壁や天井にまず漆喰を塗り、それが乾かないうちに水で溶いた顔料で絵を描く、そのようにして壁や天井に直接描かれた壁画だから、絵を移動しようとすれば建物ごと運ぶしかない、それはほぼ不可能というものだ。もちろん移動を前提にパネルに描かれたものもあるが、壁画は固有のそこに行かなければ見ることができない。

このようにフラ・アンジェリコを見るには、フィレンツェのサン・マルコ修道院、ジオットを見たければ、アッシジのサン・フランチェスコ教会やパドバのスクロヴェーニ礼拝堂ということになる。

ローマ帝国の滅亡後、イタリアは都市国家にばらけ、イタリアの統一国家が誕生したのは日本で言えば明治維新のちょっと前。藩ばかりの徳川幕府がない国と言えばいいのか。だからイタリアは地域性が強い。絵画も例えばシエナ派やヴェネティア派という具合に都市に流派が生まれた。

ルネサンスの絵画はジオットに始まると言われるが、透視画法などの発明でどんどんと写実力は高まっていく。確かに「前期ルネサンス」のジオットの頃から「最盛期ルネサンス」のダ・ヴィンチへと時代が下ると表現技術はぐんと進化を遂げる。ルネサンスと言えば、「最盛期ルネサンス」のレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロがよく知られている。しかしジオットなどの芸術家の「前期ルネサンス」の芸術家もいい。
もちろん最盛期の芸術家は凄いが、決してジオットがダ・ヴィンチに芸術性において劣っているとは言えない。
前期ルネサンスの芸術家のジオット、ここで取り上げたフラ・アンジェリコ、ボッティチェッリ、シモーネ・マルティーニ、ピエロ・デッラ・フランチェスカの作品を訪ねて、建築と共に、個性豊かなイタリアの各地を訪ねることでルネサンスの凄さを体感できる。

アッシジ サン・フランチェスコ教会にはジオットの絵が
サン・フランチェスコ教会には入ってすぐに
ジオットの 有名な「小鳥に説教をする聖フランチェスコ」がある

ペルージャ
ペルージャはかつてサッカーの中田がいたことで日本人にはよく知られている街だが、大学都市として有名な山岳都市で、世界各国から留学生がやって来る古い町だ。
先のアッシジから近く、ペルージャへは20kmもなくタクシーで行った。運転手がイタリア人らしく大変陽気で、オ~ソレミヨ~♪と、道中パヴァロッティさながら、車内に響き渡るデカい声で歌ってくれた。イタリア気分満載の楽しい移動になった。

ペルージャにはイタリアで僕が一番好きな建物、サンタンジェロ教会がある。5世紀ころの初期キリスト教の建物で、知る人ぞ知る素晴らしい建物だ。
イタリアには名建築が山ほどあるが、サンタンジェロ教会はステンドグラスがあるわけでもなく、キリストの絵が派手に飾ってあるわけでもない至ってシンプルな、建築だけで空間を作っている。プランは2つの同心円状のエリアがある円形プランで、中央部には祭壇があり、周辺部は外廊になっている。

聖堂の中に入るとホッとする。何か優しいものに包まれたような温かい気分になる。
中心部は天上が高く、16本の柱から延びるアーチで屋根を支え、アーチとアーチの間には木の梁と板張からなっている。中心部からは全方位にぐるりと下屋で空間を広げている。16本の柱は古代のもの(異教徒のもの)で、何処から持ってきたのかマチマチなのもいい。
祭壇のある中心部の高い上部には窓があり、下屋部分から見ると中心部は明るく、空間の求心性を強めている。この光でもこの建物に集う人々を包み込み、連帯感を強める効果も生み出しているのだろう。

平面図
断面図
ズボッと、でも素朴な美しい形をしたサンタンジェロ教会の外観
内陣の上部には窓があり、内陣のある中心部は光で満たされる。再利用のマチマチの柱は基壇部分で高さを調整している。撮影・出典:Ricci Mariagrazia
人々を包むような優しい形をした内陣の天井
(出典:Facebook「Dall’Umbria con Amore 」から)

小澤征爾さん

2024.02.11

小澤征爾さんが亡くなった。
小澤さんは僕より一回り年上の猪。
遠い存在だが年の離れた兄貴のような、 希望の星のような存在だった。
ボストン交響楽団、新日本フィル、松本での斎藤記念の演奏会など、
小澤さんの講演はずいぶん聞かせて頂いた。

小澤征爾指揮、ベルリンフィル、チャイコフスキー交響曲6番「悲愴」Youtubeから

小澤さんの指揮は、 曲の最初から最後まで 、 部分から全体までが緻密に構成され、それを楽団員にどういう風に演奏して欲しいか、 体で音楽を正確無比に表現していた。それは凄いとしか言いようのないものだった。
だから聴衆は小澤さんの指揮の姿と共に音楽を聴くことで、音楽をより深く音楽に入っていくことができた。
小沢さんは演奏会で楽譜を見ない。譜面台自体がないこともあったし、また置いてあっても楽譜は閉じられたままだった。
交響曲の指揮者の譜面は各パートが何列にも重ねられて書いてあるから分厚い。そのすべてが頭に入っているとしか思えないくらいに緻密に、しかも全体を把握しながら指揮しているように思えた。
小澤さんは相当の勉強家だったらしい。毎朝、日の出前から起きて譜面を読むのを日課にしていたとか。
だから、演奏会で楽譜を全く見ないというのが可能だったのだろう。

小澤さんを育てたのは、良く知られているように斎藤秀雄。斎藤秀雄は怖く情熱のある先生だったとか。そのような先生の元だからこそ小澤さんが生まれたのだう。芸術は半端じゃ生まれない。
斎藤秀雄から小澤さんへ、日本の西洋音楽を世界に開いてくれ、さらにそれは東アジアの音楽家にもそれを広げてくれた。
小澤さんには、もちろん素晴らしい演奏を堪能させてもらたことと共に共に、音楽以外にも勉強をし続けること、勉強の楽しさ、前向きに生きることの大事さを教えて頂いた。

小澤征爾お薦めCD
ブラームス:交響曲 第1番  サイトウ・キネン・オーケストラ 指揮小澤征爾
ブラームス:交響曲 第4番  サイトウ・キネン・オーケストラ 指揮小澤征爾

建築家がお薦め 三ツ星★★★建築の旅シリーズⅡ 1-ベルリン

2024.01.11

ベルリンの歩き方

冷戦構造の崩壊

第二次世界大戦後の歴史は大きく見ると、1989年のベルリンの崩壊の前後で分かれる。ベルリンの壁の崩壊は東西冷戦構造の崩壊の象徴で、また日本ではバブル経済が崩壊し、戦後の経済成長が終焉した。

東西冷戦構造期の東アジアでは韓国や台湾のように独裁政権の国が多かった。しかし日本は冷戦構造下で経済的発展を遂げる。逆に冷戦構造の崩壊後は台湾や韓国のように民主化が進み、日本は周りの国々に追いつかれ、追い越されようとしている。東西冷戦構造の崩壊はそれを契機としてアジアの国の在り方にも大きな影響を及ぼした。

ヨーロッパももちろんだ。EU(欧州連合)が出現し、経済的にも政治的にも規模を拡大した。また軍事同盟であるNATO(北大西洋条約機構)は冷戦構造下でもすでにあったが、冷戦構造の崩壊とともに拡大し、と同時に現在のウクライナ情勢のように新たなレベルの複雑さと不和をもたらしつつあり、冷戦構造の崩壊の次に来る時代の変化が起こりつつある。

海外への旅は異なった地域の空間を体験するだけでなく、異なった時間も体験することにもなる。最初に、ヨーロッパの土を踏んだのは1991年、44歳の時だった。ずいぶん遅い体験だった。設計事務所を開きお金のない時代が長く続いたから、行きたいと思っても行けなかった。もっとも1ドル360円では日本国民のほとんどにとって海外旅行は高値の花だった。その後円が強くなりヨーロッパへ矢継ぎ早に行くようになる。

ヨーロッパの最初に踏んだ地はベルリンで、滞在時間はわずか72時間。ベルリン訪問の切っ掛けは、1991年はバブルが崩壊したとは言え、日本にはまだ経済力があり、ベルリンの壁の崩壊で東西ドイツが合併し、ベルリンがヨーロッパの中心になることが予想され、ある企業の社長から旧東ベルリンにある建物を購入したいから、その建物がいいものかどうか見て来て欲しいとの依頼だった。こんないい話はない、もちろん、二つ返事で依頼に応えた。

そのような切っ掛けだったが、依頼の仕事をしながら始めてみるヨーロッパの建築に衝撃を受けた。それまでアジアの建物はたくさん見ていたが、ベルリンの大聖堂のドーム建築を始め、ヨーロッパ建築の荘厳さに圧倒された。72時間ずっと付き添ってくれた自由ベルリン大学のF先生は、ヨーロッパ建築に圧倒される僕を見て「泉さん、イタリアの建築はこんなもんじゃないですよ、建築はイタリアですよ!」と、建築家の僕は言われっ放しだったが、その後ローマのサン・ピエトロ寺院を見て、これも本当にすごいと思ったが、ベルリンでの初めての異文化との出会は別ものだった。

そして別の視点からだが、ベルリンで驚いたことは、それまで分断されていた東と西で町の景色が全く異なっていたこと。共産党政権の下にあった東ベルリンには全く活気がなく、東ドイツの国力が相当落ち込んでいたことが一目瞭然だった。

それに、第二次世界大戦が終わって45年経つとはいえ、東ベルリンの町には戦争による弾痕の跡があちこちにたくさん残っていることだった。日本と違い、ヒットラーは首都ベルリン陥落まで戦い続けたから、市街戦による戦争のすさまじさを今に残していた。戦争とはこんなにも銃撃しあうのかと、建物の壁を背にして恐怖を覚えた。

第二次世界大戦後のドイツの世界への処し方は、メルケルをはじめとして、この戦争経験を抜きにして語ることはできないと思った。

【旧東西ベルリンを分断していたベルト地帯、監視塔が左側にある】

【旧東ベルリンの建物に残る第二次世界大戦による弾痕の痕】

このような第二次世界大戦の痕跡を見ているうちに、ふと建築家シュペーアのことに思い経った。シュペーア、といきなり言っても誰のことかご存じない方も多いと思うが、あのヒットラーお気に入りの建築家である。

ヒットラーも若い頃、絵描きや建築家を志したことがあり、芸術が好きであった。作曲家ではリヒャルト・ワーグナーを愛し、建築では古典主義を愛した。あのヒットラーではあるが、ある種の芸術家に対しては非常に尊敬した態度を見せたといわれる。

そのようなヒットラーの建築における美学に応えたのが、シュペーアだった。彼はヒットラーのお気に入り主任建築家となり、ヒットラーの第三帝国を表現したベルリンの壮大な都市計画を行っている。ヒットラーはシュペーアといる時間は楽しかったらしく、図面を見ながら何時間も二人で時間を費やしていたといわれる。

またヒットラーのお気に入りに、レニ・リーフェンシュタールという女性映画監督がいたが、彼女の有名作品にプロパンダ映画の最高傑作と言われる「意志の勝利」というのがある。彼女の作品だとは知らずに、この映画を見た方も多いと思うが、ヒットラーが開いたニュルンベルクでの党大会のシーンの記録映画で、天に向かってサーチライトの光が何十本も列柱のように伸びる壮大な会場のシーンがあるが、あの会場を設計したのもシュペーアである。

【映画「意志の勝利」から、ナチスのニュルンベルグ党大会】

ところでこのシュペーアは、第二次世界大戦でのドイツの戦局がだんだんと怪しくなってくると、ヒットラーによって本来の建築家としての役割でなく、軍需大臣に就任させられてしまう。建築家は現実を計画的に動かす能力に秀でた者が多く、彼もそのような面で長けていて、そういう立場になってしまったらしい。実際彼が軍需大臣になってから兵器の生産力は飛躍的に高まったと言われるが、ついに彼はナチス政権の中枢まで担うようになってしまう。しかもユダヤ人のホロコーストを行ったあのナチス政権の中枢を、であった。

戦争が終わり、彼も当然、第二次世界大戦後に有名なニュルンベルグ裁判にかけられることになる。裁判の争点はナチスによるアウシュビッツなどのホロコーストの実態を知っていたか、そしてそれに加担したか、ということだったが、評決の1票の差で死刑が決まるところまで行ったが、彼の証言の真偽はともかく、彼は死刑から逃れることができた。ただ20年の刑に服し1966年に釈放された。

彼の人生を思うとき、いつも気が重くなる。彼のことをどう思ったらいいのか、見当がつかず考えはさまよってしまう。建築家の多くは自分を認めてくれた上での仕事の依頼であれば、迷いなく受けるだろう。それは建築家の性とも言っていいものかもしれない。

それに、当時の多くのドイツ人は、ヒットラーの説く、ドイツが抱える問題への解決の方法に影響されていた。シュペーアはシュペーアなりに、建築家としての仕事が、それに貢献したいと思っていたのだろう。しかもシュペーアが主任建築家になった時にはホロコーストはまだ存在しなかったのだから…と、もしも自分がそのような状況下にあったたら、自分はどうしたかと自問自答する。

ところで、ミース・ファン・デル・ローエもヒットラーの下で、仕事をやりたくて、様々な案をヒットラーにプレゼンしたらしい。しかし、ヒットラーはその案が気に入らなかった。シュペーアとミースの運命は、ヒットラーへが彼らのプレゼンを気に入ったかどうかで、その後の人生が大きく分かれることになった。

リベスキンド

21世紀になりベルリンの中心部にさほど大きくない建物だが、強烈な存在感を持つ建物が誕生した。「ベルリン・ユダヤ博物館」で、第二次世界大戦でドイツがユダヤ人へ大きな被害をもたらした反省から建てられ、ベルリンにおけるユダヤの歴史の資料の展示、またユダヤ人への迫害を建築空間で表現している。

外壁はギザギザに引き裂かれた金属板で覆われ、緊張感を伴った激しい外観をしている。内部に入ると床は傾き不安定な感覚に襲われ、また何もない天井の高い薄暗い空間で、強制収容所におけるユダヤ人虐殺の歴史を思い至らせる。

建 築家はユダヤ系アメリカ人のダニエル・リベスキンド。脱構築主義、略してデコン(Deconstruction)と言われる一派の建築家だが、完成当時、世界的に話題なった建物だ。

【ベルリン・ユダヤ博物館の外観】

【ベルリン・ユダヤ博物館」建物内部も激しい緊張感に満ちている】

【天井の高い空虚な空間で強制収容所を思わせる】

リベスキンドは一躍、このユダヤ博物館で世界的に有名になり、さらに9.11アメリカ同時多発テロの跡地、グランドゼロの再建コンペを勝ち取った。しかし建設の関係者である土地所有者や不動産開発業者などの大きな力の前で、非力なリベスキンドの設計案はズタズタになるほど大幅な設計変更が加えられ、建築自体も他の設計者にゆだねられてしまった。リベスキンドにとっては、苦い思い出しか残らない仕事になったことだろう。

ヒットラーに気に入られたシュペーア、大きな力に敗北したリベスキンド。どちらも時代に翻弄させられた。ただシュペーアもリベスキンドも媚びへつらってはいなかったようだ。シュペーアも最後はヒットラーの戦争方針に堂々と意見を述べていたらしい。リベスキンドも敗北はしたが、自分を曲げなかった。それが救いだ。

今、シュペーアとミース、それにリベスキンドが会うことができたら、どのような会話をすることになるのだろう。

シュペーアに関する本とDVDの紹介

日本放送出版協会 「ヒットラーの建築家東 秀紀

DVD 「ヒトラーの建築家 アルベルト・シュペーア」

建築家がお薦め 三ツ星★★★建築の旅シリーズ 6―スリランカ

2023.10.16

泉がこれまでに旅した旅行記を連載中です。
その第6回目。
今回はスリランカです。
ここから入ってください。

建築家がお薦め 三ツ星★★★建築の旅シリーズ 5―東南アジアの歩き方

2023.09.08

泉がこれまでに旅行した国内、海外を現在連載中です。
今回はインドネシア(バリ)、ネパール、カンボジアです。
ここをどうぞ。

バリ島山中の村の裏通り
ネパール カトマンズのダルバール広場
カンボジアで尋ねたお宅のリビング

お支払いはセルフで前金にてお願いします

2023.08.11

暑い日はカレーが食べたくなる。
事務所の近くにはネパールやインドのカレー屋が沢山あるけど、今日は日本のカレーが食べたいなー、と思って出かけたら、こんな看板が。
どんなカレーかわからないが、伝説、牛豚挽肉、玉ねぎ、辛口という言葉に引き込まれ、誘われるように地下のカレー屋へ。

奥の台所で働いている人はいるようだけど、だれも注文を取りに来てくれない。
台所の前まで行ってみたら、このようなテーブルが。
良ーく、見てみてくださいネ。

要するに、 注文内容を自分で伝票に書き付け 、自分でお金を出し、つり銭も自分で勝手に取る、そうすると、奥のおかみさんが伝票を取りに来て、伝票に従って料理を作る、お金のことは100%客任せで、客を100%信用した商売❣。
へー!こんなことが成り立つのかと、ちょっと興奮しながら、美味しいカレーを食べた。
帰る時におかみさんがテーブルのところに立っていたので、お金を騙す人はいませんかと聞いたら、それはなく、たまには釣銭の計算を間違えたらしき人はいますけどね、とのこと。
ここまで信用されると、騙す人もいなくなるのか。

このカレー屋さんの場所を書こうか、書くまいか迷ったけど、僕の事務所の近くの7丁目、とまで書いておきます。


建築家がお薦め 三ツ星★★★建築の旅シリーズ 4-沖縄、台湾の歩き方

2023.07.21

泉が現在連載中の記事の紹介です。
今回は沖縄、台湾編です。
次をどうぞ。
建築家がお薦め 三ツ星★★★建築の旅シリーズ 4-沖縄、台湾の歩き方

建築家がお薦め 三ツ星★★★建築の旅シリーズ第3回、韓国、中国

2023.06.19

建築家がお薦め 三ツ星★★★建築の旅シリーズの第3回目、アジア編の韓国、中後記です。
ここをクリックしてください。

建築を見る旅をどうぞ

2023.04.26

これまで日本や海外のあっち、こっちを旅してきました。
建築を見る旅はメッチャ楽しいですね。
その体験をもとに、良かったところ、旅の面白がりなどを6回にわたり連載します。
書き始めると6回ではとても終わらないことが分かり、かいつまんで要点を書きます。
それだけに内容は濃いかも。
「木を哲学する企業」クボデラ株式会社のHPの中です。
建築家のお薦め 三ツ星★★★建築の旅というシリーズです。
よろしく。

徳島SDGsめぐり―1

2023.04.17

私が校長を務めている「家づくり学校」にはちゃんと修学旅行もあります。
しかし、今年は参加者が少なかった。
コロナのせいで、学年間のつながりが切れ、家づくり学校の修学旅行の楽しさが伝わらなかったようだ。
しかし参加した人はすごく楽しく建築を勉強し、満足していたようだ。
で、今年度の修学旅行の行き先は、徳島県も山の中にある SDGs と言っていいのか、環境問題の先進地域である徳島県の山の中の村ばかり。
SDGs と言っても、まざまなSDGs があり、SDGs そのものへの評価も人によってさまざま。
斎藤幸平さんのように、SDGs を「大衆のアヘン」、企業の宣伝の「見せかけ」「まやかし」と警鐘を鳴らす人もいれば、皆さんも見たことのあるだろう、色取り取りの丸いSDGs のバッチを付け、高級車の後ろ座席に乗ったおじさんまで様々。
今回の修学旅行は、徳島の各地域で行われているSDGs と言っていいのかどうかわからないが、それぞれのその活動をどう見るか、評価するかという視点で見るとメッチャ面白い企画だった。
2泊3日の旅だが、行った先は下のハートマーク。
大雑把に言うと、徳島市→上勝町→神山町→脇町→美馬市→祖谷→鳴門

まずは上勝町から。
上勝町は山の中の人里、でもほかの人里と違って何か美しい。
日本はちょっとやそっと山の中に入っても、人里だとそう美しい風景にはお目にかかれない。
何か残念なものが必ずある。
ここ上勝町は特段何があるわけではないが、普通に美しい。
この村はごみを出さないことに一生懸命で、そのことで全国的に有名になったが、そんなことにもよるのだろうか。

設計はNAPと構造の山田憲明さん。

その建物の下、ゴミが徹底的になんと45種に分別し、再利用し、無駄や浪費、ごみを無くす、をモットーに2003年にゼロ・ウェスト宣言を行っている。
それから20年経っているが、これまでにもいろいろとあったに違いない。
よくぞここまでやったな、と思わずにはいられなかった。
この建物はこのような活動にふさわしいく作られたが、古い建具を新築の建物に再利用している。
何だか、気負ってない茶目っ気があり、楽しそう!

講座「住宅設計の考え方」を読み解く 第Ⅱ期 のお知らせ

2023.03.20

昨年より拙著「住宅設計の考え方」を読み解く講座を始めました。
出版した本が600頁近くあり読むのが大変、読破をあきらめた人がかなりいたようです。
本を途中で放り出すことはよくあるこですが、建築の本はさらに文と図面、写真を見比べながら読まなければならず大変。
その様なことからか、じゃー、どのようなことが書いてあるか、皆の前でスクリーンに図や写真を写しながら解説していけば、読みやすくなるだろうとこの講座を始めました。

先週、無事に第1期を終えることが出来ました。
昨年は定員一杯で参加できなかった方が結構いましたし、また実施したら好評で引き続き、第Ⅱ期を行うことにしました。
昨年は全6回でしたが、内容をさらに充実したく今年は全7回にすることにしました。

結構、建築の考え方が深くなると思います。

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