2011年03月の
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講演会のお知らせ

2011.03.30

僕の仲間の講演会のお知らせです。
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僕は4月24日に出ます。

地震 Ⅳ

2011.03.23

連絡が取れなかった仙台の建て主さんも無事だとわかりすべてOK。
よかった。

ところで僕がかかわっている、
「チルチンびと地域主義工務店の会」という、全国6~70社の工務店が集まって作っている団体あるが、
今回の地震での活躍は凄かった。

常日頃この会から僕のところにグループメールが来ていたのだが、
地震の後は毎日100近いメールが届いている。
何のためのメールかと言うと、
被災地救援のため、全国に散らばる参加工務店から物資を集め、被災地に届ける作戦のメール。

被災地の工務店からは今、何が必要か、
たとえばブルーシート、バール、ロープといった建築に必要なもの、
車を動かす石油、それに水や、食糧、使い捨てカイロなどと連絡が入り、
他の工務店からはどこの道が通れそうだとの連絡、
また全国の工務店から集められた物資は引き継ぎ引き継ぎで、新潟ルートで運搬。

11トン車と4トン者に満載された物資が届けられたのは、
地震発生から7日目には到着。
公的機関の援助より早かったこともかなりあったのではないか。

おかげで泉事務所で設計した仙台の現場は、
信じられないことに、先の見えない混乱した状態にもかかわらず、すでに動き始めている。
工事再開はしばらく厳しいのでは、、、と思っていたが、
ネットワークというものは本当に大事なもの、と思い知らされた。
「チルチンびと工務店の会」の皆さんに感謝。
工務店の会,立派!

今回の作戦は会に参加する工務店の互助もあるのだが、その他の方々への支援も行われた。
以下、物資を届けた工務店の方の一文を紹介します。
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物資が届いている所と、そうでないところのギャップが大きいです。
物資は、大きな避難所ばかりに偏っているようです。
仕方ないので被災地を社員と一緒にひたすら声掛けをして歩きました。
小さな災害集落は、断水がまだまだ、続いており食料はほとんど届いていないよ
うでした。。

「全国の皆様の気持ち。涙が出るほどうれしいです。」

「この集落には、まとめ役もいないし水も買いに
いけません。お店も全て流されました。ガソリンもありません。
生活雑貨。本当にうれしいです。しばらく、頑張れそうです」

「ここは、お年寄りばかり。。
このように、小さな部落を回って頂きこうして、ご支援まで。。
うれしいことです。
なんて、言ったらいいか分からないです。こんな年寄りまで
大事にしてもらい感謝です。本当にうれしかったです。」

「涙ばかり出ます。有難いことです。」

沢山の感謝の言葉を頂きました。
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地震Ⅲ

2011.03.19

地震や台風などの災害が起こると、
まず真っ先に考えることは、自分が設計した建物は無事か、ということ。
今回もそう。
これまでに仙台では2棟建てているし、
着工したばかりの住宅もある。
また郡山の建設会社のモデルハウスを一軒建て、またもう一つ工事中のものがある。

仙台の建物の一つは名取川の上流で、海から8kmくらい離れたところに建っている。
5km津波が登って来たことをニュースで知ったが、
川に近いことで心配だった。

数日間、なかなか電話しても通じず、心配は募るばかり。
5日後にまた電話したら、建て主さんのいつもの声。
声を聞いただけで無事に生きておられることが分かり、
思わず「あー、よかったですね」と。
建物は何の被害もなく、炊き出しに励んでおられるとのこと。

仙台ではもう一軒、広瀬川のすぐ近くに建てたが
こちらのほうもなかなか連絡が取れなかった。
そうしたら先方のほうからメールが来て家族全員無事だとのこと。
良かった。
耐震強度を通常の建物より1.5倍に上げているから、
大丈夫との確信があっても本当に心配なもの。

郡山の建物、現場も無事。

仙台の着工したばかりの建物はまだ基礎の段階だから心配はないが、
建て主さんとはまだ連絡が取れない。
これだけが心配だ。

泉事務所が設計した建物は無事だった。
しかし今回の地震では多くの方々が亡くなられた、ただただ冥福をお祈りするばかりだ。

地震Ⅱ

2011.03.16

地震の翌日、翌々日は長野県松本市での講演会、長野県の卒業設計の審査会が予定されていた。

12時の新宿発「あずさ号」で行く予定だったが、はたして電車は動いているのか?
朝起き、インターネットで電車の運行状況を探したがさっぱりわからない。
TVでも確実なことは分からないが、まだTVのほうが役に立つ情報が多かった。
(インターネットがこのようなときは役に立つと思っていたが、意外や意外。まだまだ一極集中型のメディアの役割は大きい)

とにかく新宿駅まで行ってみるしかなく行ってみたが、「あずさ」は動いてない。
主催者側から新幹線が動き始めたようなので、長野まで来てもらったら松本から迎えに行きます、とのこと。
しかし新幹線に乗るまでの山手線が動いていない。

どうにかこうにか松本まで行こうと右往左往したが、結局松本についたのは夜の8時。
もちろん講演会は中止で、明日の審査会のために前日に到着したようなもの。

主催者側の長野県の方々は当然懇親会を始めていて、別世界。
「大変でしたねー」とねぎらってもらったが、
こちらはまだ地震での興奮が冷めやらない最中、
別世界との波長と直ぐにはかみ合わない。
波長が合うようになったのは、かなり酔いがまわってからだった。

地震Ⅰ

2011.03.15

地震が起きた時、事務所で構造設計者と打ち合わせをしていた。
前ぶれの縦揺れはほとんどなく、大きな横揺れがいきなりきた。
僕の事務所の建物は古く、東京オリンピックのころにできた建物。
だから大きな地震が来れば危ないと日ごろから思っていた。

ゆっくりと大きな揺れだったが本棚が倒れるでもなく、
また事務機器が移動することもなかった。
建物が崩壊するにはこんな揺れくらいではまず起きない。
でも、所員はかなり焦ったようで、「先生、外に出ましょう」と促され、
皆で事務所が面する明治通りに飛び出した。

明治通りには10階くらいのマンションが建ち並んでいるが、
上のほうがグラグラと揺れている。
構造設計者のH氏はその様子を見て、「剛性が低い[E:angry]」などと解説。

そのうち明治通りは帰宅者や、避難場所に指定されている近くの学習院へとぞろぞろ歩き始めた。

学習院へは野次馬根性もあり行ってみることに。
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若い人ばっかり。
会社から避難するように言われたのかなー。
本チャンではお年寄りはどうやって避難するのだろう。

4時から板金屋との打ち合わせがあったので、
事務所に戻る。
打ち合わせをしながらも、まだ余震でたびたび揺れる。
所員に「先生帰りましょうよ」とまた促される。

俺は「ここで死んだら本望だ」と見えを切る。
もう大丈夫との確信もあったが、
胆力、根性が違うワイ、と内心ほくそ笑む。
それにしても僕はやっぱり事務所が好きなのだ。

先に所員を返し、一人で明日の講演会のパワーポイント作り。
用意も終わり車で家路についたが、
明治通りは帰宅者で人の波。
歩きの人を横に見ながら車で出たものはいいものの、車が動かない。
表通りは歩行者と同じ速度でしか走れない、しかし裏道はガラガラでスイスイ。
それでもわずか3~4kmを1時間以上かかった。

泉事務所陸上部

2011.03.07

事務所のある目白ではこの季節にロードレース(マラソン大会)が開かれます。
学習院やその周辺をぐるぐると5キロメートル回るというもの。
学習院の中には心臓破りの坂があったりしてかなりきついらしい。

その大会に泉事務所からも元気のいい若手が3名参加。
日曜の朝だったのだけど僕も応援に出かけた。

そしたら何と、30歳以下の女子部で事務所の所員が4位に入賞!
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彼女は元陸上部、400mの選手で、ラストスパートで何人も抜いたらしい。

大会に登録するときに名前と所属「イズミジムショ」と書いそうで、
事務所の名前を汚さないように頑張りまーす、何て殊勝なことを言ってたけど、
ヨシ、ヨシよく頑張った!

来年は旭化成とかSB食品、資生堂のように「イズミジムショ」の名前入りのランニングウエアーでも作りましょうか。

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