8月15日

2015.08.16

TV「戦後70年番組」が立て続けにあった。
最近発掘されたのか、これまで見たことのない沖縄や硫黄島、特攻隊の生々しい悲惨な戦場の映像が映し出されていた。
番組として質的にレベルの高いものが多かった。
見れば見るほど戦争の悲惨さは底が深い。
また戦争の記憶が遠くなりつつある中でこの悲惨さは後世に伝えていかなければならないと思う。
しかし映し出されるその悲惨さは私達、日本人が経験したものばかり。
例年、この時期日本は「日本人の受けた悲惨さ」に覆われてしまう。
日本が近隣諸国に与えた悲惨さを映し出すものは全くとしてない。

そのような中で、首相の談話が発表された。
私たちの子や孫の世代に「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」との言葉があった。
確かに近隣諸国から、いつまでもいろいろ言われるのは嫌なもので、過去の問題はスッキリさせたいものだ。
だから今の日本人には受け入れやすい言葉だ。
しかし、その言葉には大変なジャンピングがある。
スッキリさせるには、相手への明快な謝罪と行動があり、それを相手が受け入れることによって始めてそれは可能になる、という当たり前のことが抜け落ちている。
さらに言えば「外交カードとしての歴史認識問題」を相手方が持ち出していると言われるが、そのカードを残させているのも日本が適切な言葉と行動をとらなかったことによる。

私達日本人は島国に住み、やはり視野狭窄症に陥りやすく自己本位に物を見がちではないか。
第二次世界大戦による死者は全世界で推定約6000万人、そのうち日本人は約300万人と言われる。
日本以外にも多大な死者がいて、第二次世界大戦での死者はドイツ人とユダヤ人に日本人がほとんどと思われがちだが、むしろ日本人の死者は1/20に過ぎない。
日本のために死んでいった人たちを追悼するとともに、日本によって死に追いやられた人々をも追悼する日にしなくていいのだろうか。
どうも今回の「談話問題」も同じく視野の広さの問題のように思える。